異文化 あるある Vol.4 ピクトグラムは日本生まれ

海外旅行はエイプリルフール

人のふり見て我が振りなおせは旅の重要ポイント!

外国旅行と東京オリンピック

 今は昔。日本で初めて海外旅行が自由化されたのは、1964年4月1日。まだと考えるか、もうと考えるか微妙な60年ほど前のこと。奇しくも、アジア初のオリンピックとなった東京大会も1964年。10月10日にスタートしているんだよね。1964年ってまさに日本人が身近にリアル海外を感じ始めた年だったんだね。

 戦後の高度成長期と呼ばれた時代、日本はまさに夢見る人々の熱気と活気に満ちていて、映画「ALWAYS 3丁目の夕日」の世界だった。今の日本にいると、コミカルファンタジーのようだが、羽田空港の見送りデッキで万歳三唱をして家族を見送っていたのも本当のお話。

 当時日本は固定相場制をとっており、1ドル360円と決まっていた。海外行く時に、円高だから行きどきだわ!なんて会話は成立しなかった。でも、考えて見ると、360円とは随分高いと思いますよね。

 そのちょっと前まで、日本はアメリカと戦争をしていたわけで、終戦後、アメリカから入って来た生活や文化は、貧しかった日本人を驚かせ、一転して羨望の気持ちにさせるのには十分だったようで、冷蔵庫、洗濯機、炊飯器は、当時の三種の神器と呼ばれた時代でもありました。

 360円と言っても、その頃の大学の初任給は平均で2万7千円位。国家公務員大学卒が2万円に届かない。とってもお菓子一個の感覚でいられない。興味深いのは、1958年の平均は1万6千円ほど。ほんの5年くらいで2倍とはいかないまでも、ものすごい昇給率。どれだけ景気がよかったか分かるってものですよね。

 ただし、当時、大学に行く人は義務教育を終えた数から算出すると10%くらいしかいないから、かなりのエリート、高給取りの金額、まだまだ外国に行ける人はごく限られていたと考えた方がいいと思う。

 

ハワイ9日間 400万円ツアーは高い?

 1964年4月1日にスタートした海外旅行自由化とは、観光目的のパスポートの発行が開始され、1人年1回、海外持ち出し500ドルまでの制限付きで海外への観光旅行が行けますよというもの。1ドルは360円と決まっていたから、500ドルは18万円。今の貨幣価値だとおよそ200万円近い大金です。

 それまでは、特定の役人 や政治家、輸出入関係業者、留学生、皇族や外交官とか、インターネットスラングで言う「上級国民」が行ける夢見る世界。その夢が降臨した瞬間だったわけです。しかし、決して誰もが手軽に行ける金額ではなく、当時は農協がその代名詞になりました。一般富裕層は農家さんだったのですね。

 その4月。テレビでは初めての海外ツアーに出かける人々の姿が連日ニュースを賑わせ、ノベルティだったのか、誰もがJALと書かれた四角いビニルのショルダーバッグを掛けて、背広にネクタイ、女性もおしゃれなワンピースなどを着用して、タラップを手を振りながら上がっていく。18万円を握りしめて、みんなドキドキワクワクで機上の人になっていったのですね。

 JTBが4月8日に初パッケージ、ハワイ9日間で364,000円。今なら7時間程度のフライトだけど、大型機がない時代なので、16時間くらいかかって常夏のハワイに出かけていた。

 そのころね、新婚旅行といえば、宮崎、日南海岸が日本人の憧れ定番だったのだけど、ハワイに憧れが移った時代でもあって、プロポーズには、新婚旅行はハワイと言ってくれたからなんて殺し文句が流行ったとか。でも、若者に手が届くのはかなり難しく、現在の貨幣価値に直せば、400万円以上はする金額。カップルでいけば800万円なんて、まさにセレブ婚と言えたのかもしれませんね。

 翌年のヨーロッパ16日コースは675,000円、現在の700万円以上の出費、そして、バカ高い関税を払っても、お土産には洋酒や香水を持って帰る人が多かったらしい。人生のステイタスだったのかもね。

旅の恥はかき捨てっぱなし

 旅の恥はかき捨て。この言葉は、まだ死語にはなっていないと思うのですが、 コロナ禍以前、高度成長の波に乗った中国人観光客の傍若無人ぶりは世界中の顰蹙を買っていて、日本も例外ではありませんでした。私自身は、中国ばかりがマナー知らずとは思いませんが、なにせ数が半端ないので目立つし、グループ行動では周りの環境が見えづらいという原因もあると思いますけどね。

 実際、私も、いろいろと強烈な光景を目にしました。さすがに、ん~と唸ったのは、銀座シックスがオープンして間もないころ、正面玄関のドア前の舗道に中央通りを挟んで向かいにある人気ファストファッション店のチラシを敷いて、コンビニのおにぎりやら、総菜を座り込んで食べていた子連れの家族とか。見る限りでは注意しようとする人はいなかったし、子供たちと大声でしゃべりながら食事(?)をする母親の言葉からすると、共通語も持たないのは歴然。第一、彼らの堂々とした怯みない行動には悪気のない無邪気さがあって、ただただ違和感のある景色に呆然としてしまいました。

 多分、自国ではどうってことのないことなんだろう。世界にはそれぞれの地のマナーがあるということを知らないだけと考えたほうがいい。

 冗談じゃない、行く国のことくらい勉強して行け!と怒る人も多いのを知っているけれど、日本人旅行者だって同じようなものだよとつくづく思うこともあるあるなんです。多分、文句を言う多くの人は、自分たちが当たり前にやっていることが、他国ではタブーだよと知ったら、「だってそんなとこに行かないもん。」って言うんです。へー、そうなのか、と気付くことが大事なのですけれどね。恥ずかしいと知ることは、世界がどんどん広がるということなのですけどねぇ。

 さて、旅の恥はかき捨てという言葉の意味なのですけどね。私たちがこの言葉を使う時は、大抵自分の行為の言い訳に使っています。よくわからないときや、少々後ろめたい、心苦しい時に、「ま、いいか。旅の恥はかき捨てって言うし。」みたいなね。

 それ、ものすごく間違いですから。これは、知らないでやらかしちまった旅人に対して、現地の人が、よそから来たのなら、ここの当然が分からないのは仕方ないですよ。気にしないで行きなさい。というこころやさしい言葉なのです。

 これには、必ず前提があります。やらかしたことに気が付いて悪かったと思うことです。気が付くということが大事。大人の無邪気は時として犯罪。「異文化 あるある」はこの気づきがポイントなんですよ。銀座シックスのお母さんも、だ~れもやっていないわねぇ、ここでは地べたに座らないのかしらと気が付けばよかったんですよね。

え~、信じられないって、それあなたかもです!

 

 

 1964年の東京オリンピック、続いて1970年の大阪万博と国際化の目玉となる大イベントで生まれたのが、ピクトグラムです。

 日本でしか通用しない日本語を世界中の人に理解してもらうための発明でした。トイレとか、非常口とか普段目にするイラストを模ったあのマークです。英語が母国語だったら、生まれなかったかもしれません。ちなみにシンプルで分かりやすいデザインは、家紋からヒントを得たようですよ。

 特にトイレ、その頃の日本の家庭のトイレはしゃがんで用を足すものだったし、水を流すものではなかった。日本の中で起こった大異文化遭遇です。

 洋式トイレなど、誰もが直にお尻を付けるなんて非衛生的と考えて、日本人は便器の上に乗ってしゃがんで使っていたそうです。

 

 

 それから半世紀、インバウンド需要の高かった時に、さらに進化していきました。上に乗らないはもちろんのこと、トイレットペーパー以外は流さない等々、ピクトグラムは増えつつありました。

 そう、そう、自動で水が流れるトイレってありますが、あれ、導入されたころの記憶があります。中国の高度成長が始まった時の池袋のホテル。なぜか中国人に池袋は大人気で、団体は殆ど池袋のホテルでした。それらのホテルの公共のフロア、つまり、ロビー階やレストラン階のトイレでは大ショックな体験をする人が激増しました。そう、水を流すという習慣がなかった人々が頻繁に使うようになると、その後に個室に入った人は時として、信じがたい光景に出会ってしまったわけです。

 私の記憶で、一番早く自動フラッシュ(水を流す)の体験は、間違いなく池袋のホテルのロビーでした。誰もが嫌な思いを極力しないような心づかいを持つ日本人の意識がこのトイレを作ったと思っています。他国なら、中国人お断りの張り紙だけで済ましたかもしれません。

 

 話がそれてしまいましたが、同じようなこと、私たちもしていて、世界中から日本人は嫌われていた時代があったのです。カルチャーショックに目を丸くしながら、自分たちの普通がどんなに奇異か想像するのは、初めての海外旅行ではなかなか難しいようです。

金魚屋さんとステテコおやじの路地裏

 数年前に上海に行ったとき、ガイドブックも意味をなさないほど変化はすごく、高層ビルの建設ラッシュに中国近代化のスピードを感じたのだが、いつもの癖が出て迷路へ迷い込んでみると、たった5メートルの距離で時空をワープする光景に出会えた。いっきに舗装されていない埃っぽい路地に出ると、煤けたコンクリートの四角いアパートが並んでいた。ドアは開けっぱなしでステテコに腹丸出しファッションのオッサンが欠けたプラスチックの椅子に腰かけて、所在なげに視線を泳がせている。汲み置きの水で食器を洗う「まる子のお母さん」風のきついパーマヘアの女性。裸足の子供が、駆ける足を止めて、指を鼻に突っ込んだまま、よそ者の私を訝しげな眼差しで見つめる。真っ白のものがない洗濯物が、細い針金にびっしりと干されている。

 そこからさらに奥へと向かうと、簡素なブルーシートの屋根がかけられた道があり、その下では極彩色の真っ赤な揺らめきを放つ箱が、両側にびっしりと並べられていた。ぎょっとして目を凝らすと、60センチほどの水槽が3~4段、壁のように積まれていて、真っ赤な大きな金魚たちが泳いでいた。その通路は延々と続き、曲がっても進んでも屋根のブルーが反射した水の中で、大きく小さくなりながら赤い大きなひれと尻尾が3Dの映像のようにうごめいていた。それも一つの水槽に隙間のないほどの数がだ。

 ちょっと異様で怖いくらいだった。しばらくいくと、突然金魚の壁はなくなり、また雑草の生えた路地に殺風景な生活空間に戻った。このタイムマシンの体験は、年代層によってその印象は違うと思うのだけど、私にはとても懐かしいセピア色の思い出が色づいていくのを感じていた。

 ステテコを穿いたオヤジは平気でその辺を歩いていたし、裏通りでの立ち小便の男たちはしごく当たり前の光景だった。でっかいカーラーを巻いたおばさんたちがその上にネッカチーフと呼ばれたスカーフを巻いて巨大な頭を揺らして外を歩き回っていた。ここで見る景色は、遠い昔、確かに私の記憶にある景色とダブった。初めての土地でのデジャブ経験は、まさに中毒になる旅の楽しさのひとつです。

 

繰り返し教えられたお風呂の入り方

 今、銭湯が消えつつあり、修学旅行などではみんなと一緒にお風呂にはいれない子供たちもいるそうですが、銭湯が成り立っていたということは、家にお風呂がなかったということです。家にお風呂を作り始めたのはなんと戦後になってから。ということは、海外旅行自由化の頃、銭湯文化はまだまだ元気だったわけです。旅行、お風呂とくれば、日本人ですから温泉。ひとっ風呂浴びて、浴衣に着替えて、丹前を着こんで下駄をはいてカランコロンと温泉街に出かけていく。ああ、風情があってよいものです。日本の旅行とはこんな感じでした。

 世界中に飛び出して行った人々は、お金はあるけれど、世界に対しての認識はなかった。それで繰り広げられたニッポン人は残念、経済は回してくれるけれど、決して愛され民族ではなかったんです。

 海外でのお風呂事情はそれこそ環境や風土によって変わりますが、ハワイ、アメリカ、ヨーロッパとくれば、バスタブの中ですべてを済ませる。床は防水にはなっていない。当時の添乗員がどのくらいの知識があったのか分からないが、多分、説明しても旅行者たちにはよく理解できなかったと思う。そこで繰り広げられたのは、バスタブの外でお湯を浴びる。ふむ、当たり前。浴び湯から始まり、身体も外で浴びる。あら?何かオカシイ。。。お水が流れて行かない。

 そりゃそうだ。排水口など床にありはしない。防水加工もされていない床から漏れたお湯は、とっても自然に階下の天井から滝のように漏れだして、下の階の部屋も使い物にならなくなった。爆買いのイエローモンキーはまさに野蛮な行為をするとんでもないお客様になったわけ。

 

 一方、日本ではガイジンはちゃんと体を洗わないらしい。トイレでしゃがめないと踏ん張れないから用が足せない。などなど。当然のように自分たちの不便を伝えていたのである。百聞は一見に如かず。繰り返されたフレーズである。

 そして説明会のこと始め。お風呂についているカーテンは、内側に入れて、お水が外に漏れないようにする。体は外で洗わない。トイレは便座の上に乗らない。スープは音を立てずに、食器を手に持って直接飲まない。

 どうしてそうなったのかは分からないのだけれど、ナイフとフォークを使う際、刺せないものは、フォークの背に何もかも載せて食べるのが正式ということを多くの人が信じていた。例えばご飯、(海外で白米が主食とは思わないけれど)フォークの背に押しつけてこぼさないように食べていた。

 

庭に座布団を敷いて正座する日本人

 海外旅行の自由化によって、洋行帰り、洋行かぶれたちと呼ばれた人々の「知ったか話題」は増えて行った。外国人はみんな青い目をしている。平気で人前で抱き合ってキスをする。女性は3歩下がって歩くが美徳の日本に合って、女性を先に通さなければいけない、レディーファーストの習慣。女性に年齢を聞くのは失礼とか、そんなステレオタイプを大真面目に信じた時代でもあった。確かに、今や失言の連発が止まない元総理が青春していた時代だからね。

 カップルが手をつないで歩くだけで、はしたないなんて言われたなんて、今ではどこの国?の話だけれど、海外に扉が開いたころは、よその国の観光客のことなど言えないくらいの大ヒンシュクの日本人だったわけです。

 欲しいものを指さす日本人、(指さしはタブーの国多いです)。レストランの食事中に漬物やら醤油を出す日本人。箸もってこいとどなる人。お風呂は水び出し。トイレの便器は乗って壊す。椅子の上に正座する。国際線の中のアルコールが無料なのを良いことに、大酒飲んでスチュワーデス(今のCA)さんへのセクハラ。チップを知らない、等々。

 そして、これぞニッポン!浴衣、スリッパでホテルの中をうろつく、朝食のレストランに入る。海外にはスリッパや浴衣は置いてないから、持参していったのだろう。これを団体でやらかすのだから、海外の受け入れホテルでもショックだったのだろう。注意しても、キョトンと通じない。日本人は英語が苦手だったに違いないのだから。ハワイの接客の人たちが日本語を話すのは、何も日系人が多いだけの理由はないと思います。

 突然現れた謎の行動をする爆買いのアジア人にどういう感情を抱いたのか。悪評は日本政府にも伝わり、マナーというものをさかんに重視するようになった。まさに数年前の中国政府がしたこと同じことを日本はずっと前に体験済みだったわけ。国際化とは、異文化を知ることと訪れる場所に敬意を表することに他ならないのですが、楽しい旅行ですから、行く先の良いところばかりを売りにして、マナーを教えないのは旅行会社にも責任はあったかもしれません。

 同時にフジヤマ・ゲイシャに象徴されていた日本を紹介するアメリカの教科書もかなり誤解が多く、日本庭園に座布団を敷いて、お辞儀をするイラストなど、怒りたくなるようなものも沢山あったんです。

 

ショック!銀座にサムライがいない!!

 ミレニアム、21世紀に近くなって、私がアテンドしたアメリカ人のお客さん。一緒に銀座通りをあるいていました。お決まりの話題になり、日本の印象はどう?と聞いたんです。一応の誉め言葉の後に、「ただ、残念なことは、サムライが歩いていないことよ。」と言った。ホント、ジョーダンかと思ったけれど、しごく真面目な顔でがっかりしていたので、日本って、近代的でITも盛んで、ファッションリーダーでもある先進国の一つなんですけど。。。。。と呆れた態度が見えないように注意深く応えると、「知っているわよ。でもサムライもいると思ったの。」と真剣に悔しがっていましたね。なるほど、この近代的な時代の中にあっても、ニューヨーカーの中には、リアルサムライがいると思っている人はいるんだ。ふと、考えた。今の世のサムライとはどういう職業になるのか。。。。ガードマン?

世界は広いのだ!

 旅には人生を豊かにしていく効能がある。沢山の経験と時間をかけて、時代と自分史と重ねて多数の文化や慣習を知ることで、たった一度の人生のステージを限りなく広げることができるし、生きるヒントの発見にもつながる。自分の当たり前を引っ提げての物見遊山も絶対に否定はしない。だからこその発見も沢山あるし、第一、旅は自分の行ってみたい、見てみたいからスタートしているのだから。

 57年前に始まった海外旅行自由化は、私たちにとって異文化に直接触れる大きなターニングポイントだったけど、今は、別の意味でその大きな過渡期にいると思う。コロナ収束後にどんな旅行スタイルが始まるのか。

 今現在、ワクチンパスポートや、各旅行地での感染対策アプリのダウンロード、非接触のでの渡航システムなど、飛行機会社、政府観光局など様々な模索を始めている。

 しかし、この厄介な病気は、同じ国でも感染状況は刻々と変わる。その都度対策が変わると、1か所滞在の旅であっても、行きと帰りとではルールが変わってしまった!などという笑えない話が起こってしまいそうな気もする。

 これっという打開策はまだないし、反面、ワクチンを何らかの理由で打てない人々や、アプリを使いこなせない一部の人々をシャットアウトしてしまう可能性も懸念している。

 一日も早く、安全で安価なワクチン、治療薬の開発を急いでもらいたいと切に思う。

 世界は広い。この鎖国のような時代を経て、世界に出られるときに、それぞれの当たり前はまた変化していると思うけれど、少なくとも、大勢で動くという行動には多少なりとも制約がかかるように考えている。

 赤信号、みんなで渡れば怖くない!のような旅行から、一人一人が、渡航する国々に敬意を表し、自分たちの美しい習慣も伝えられる旅にしていけたらいいなと考えている。

 世界は広い!まだまだ行ってみたい、歩いてみたいところは夜空の星を見上げるくらいにありそうだし、ね!次に行く国では、観光箇所と同時に、どんな当たり前を持っている国か、興味を持って準備していこう。